こないだ撮影を兼ね京都の浄瑠璃寺というところを訪れた。いわゆる下界とは隔絶したかのような古刹。早春のその敷地にはネコ達が溢れてい、その広大な境内は無人でほぼ貸し切りであった。

正式名称は「九体寺」である浄瑠璃寺。その”いわれ”には詳しくないが、おそらく極楽寺浄土を模したであろう境内の設計。

その本堂では九体の仏達と対峙したのだが、そこで大きく感じたのは芸術や宗教の意味だ。

その九体の大きな仏達を前にした時、安っぽい言い方をすると「敬虔な気持ちになる」「ちゃんとしなきゃと思う」「嘘がつけない気持ちになる」「周りの人を大切にしよう」そして「コロナの騒ぎが収束してほしい」という純粋で不思議な気持ちであった。

この全てが抑圧された、にっちもさっちもいかないみんなが苦しい時にそんな観光をとも思うのであるけれども、その時そういう気持ちになれたというのは貴重だと思った。

その浄瑠璃寺の九体の仏に限らず、どこでもいい、御寺で仏像を前にするとそんな気持ちに皆なるであろう。

例えば大聖堂や教会の、天井が高く祈りのうたのその良く響き、ステンドグラス越しに光る”天上”のひかり。それもまさしく神を表したものである。

人間の最大の発明である音楽や芸術文化や宗教の意味とそのチカラ。

浄瑠璃寺でのほんの10分程度のその仏たちとの対峙。生活の中でのほんの僅かなその心の余裕が、例えば「マジで頑張ろう」「人の為になろう」「楽しく生きるように努力しよう」と心の底から思わせるという。

音楽はこんな時になんになるんだ、と言われて今苦しい時ではあるけれども、音楽だけでなく文化•芸術、例えばお笑いでもいい。ちょっとしたしかし明日への根本的なチカラになるそういった生活の中の些細かもしれないモノにこんな時に接してみて、やっぱ「そーいうモノって大事なんだな」って。

音楽そして文化活動に関わる皆さん、そして烏滸がましいいかもしれないけど” 俺”も。

必要とされてるんです。大切な事なんです。今はあまりにも”その真っ最中”なだけなんです。

けど、世の中で最も大切な事は「こういうこと」であると尊く感じられる時期が、今を乗り越えれば絶対また来ると思って今は密かに自分を高めて行こうではありませんか!?

苦しい今をきっと乗り越えた先の”日常の極楽浄土”に思いを馳せて

ビールぐびぐび。

京都浄瑠璃寺三重塔見上げ Nikon F、kodak colorplus 、zeiss planarT* zf f1.4

京都浄瑠璃寺三重塔見上げ Nikon F、kodak colorplus 、zeiss planarT* zf f1.4