レコーディングにおける「写実的である」ということ。
音楽をレコーディングするにあたりひとつの目標になるのは「いかにリアルな音で録れるか」であるのは間違いありません。
しかし、全てがそれぞれにリアルであると整合性が取れないのが現代のポップスやロックだと思います。
爆音のドラムに対してのウィスパーなボーカルというのは本来物理的な音としては整合性が取れないわけですが、それをセンスや技術によりマッチングさせて音楽に仕上げる。これもひとつの写実性の具現化と言えましょう。
クラシックのオーケストラなどは物理的な非整合があるとそれは音楽そのものが崩れることになり、音楽を再現出来なくなるわけです。コンサートホールにおいてソリストはそれなりに大きな音や抜ける説得力のある音が要求されます。でなければ聴こえなくなる。
レコーディングの面白いところはこういう制約がないことです。音量バランスだけでなく色んな演奏を試して繋いだり、時間を異にし演奏されたテイクをくっつけることが出来る。
では、このように何が写実的か真実かが曖昧になっている現代のレコーディングにおいてそれを追求するとなると?。。。
それは結局作曲者や演奏家の「こころやからだ」の中にある心象風景をいかに誠実に録音し、作品にするか。
になってくるのだと思います。
なので、演奏の精度や音質の精度よりもそれぞれの音が「音楽にとってどうあるべきか」が大切になってくると思うのです。
例えば子供の頃の記憶は朧げでいくらか美化されているでしょう?
それは少しピントのズレたフィルム写真をプリントした「紙」であるほうが逆に「写実的」であるかもしれない。
記憶にとって「写実的」。
音楽に長い生命を宿すためにはそういう意味の「写実性」が一番必要なのかなと、最近いつも考えています。