EDo-mae Recordings レコーディングスタジオ

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レコーディングにおいての『余韻や情緒のやうな』モノについての扱い方は。。。

(あぁ、なんて解像度の粗い写真でしょう。。。。)

さて。。。。 

ピアノ楽曲でたまにサティとかの音数の死ぬほど少ない曲を聴きたくなる時があります。一部のドビュッシーとかラヴェルとか、シルヴェストロフとか。。。
それらはリストだのショパンだのの技巧系音数詰め込み系ピアノ曲よりじっくりピアノのトーンを味わえる気がしますよ。

同じようにドラムサウンドについても、音数少ない淡々としたプレイにホッとして酔いしれる事が出来る時があるけれど、そのようなプレイをする人はなかなかいない気がいたします。
というか、ドラムからそのようなホッとする素晴らしい音が出るというのを知らないリスナーやレコーディング制作者も少ない気もしています。

ひとえにポピュラーミュージック関係の制作者やエンジニアというのは、レコーディングにおいて音の減衰や余韻というものの扱いが非常に雑な気がしているのはぼくだけでしょうか?
その証拠に曲終わりのフェード処理の雑さをよく耳にしてしまうことが挙げられます。シンバルの余韻は果てしなく長く美しいはずなのだけれど、ズバっと雑なフェードで誤魔化す。
そこらへんから、音に対するセンスというか愛情というかについて残念な気持ちになってしまいますし、ミックスにおいての様々な音についての短絡的で雑な扱いが垣間見えてくる、気がするなぁ。

例えば最近のレコーディングエンジニアや制作者は生楽器に触れる機会がめっきり減ったといいますが、コンサートホールでのオーケストラの美しい余韻が、一部の興のわからない観客のデリカシーのないフライングなブラボーや歓声・拍手で掻き消され、イラっとした経験すらないのだろうなと他人事ながらさみしい気すらしてくるのです。

一人リズムオーケストラとも言えるドラムの音について、センスや愛情の感じられないレコーディング作品が存在するとすると、
それはそういった原始的なリスニング体験・感動体験がない人の手によるものなのかもしれないと、勘ぐってしまいますね。

『終わりよければ全て良し』ではないけれど、楽器の・音楽の美しさは余韻に集約される。
通して聴いたその曲が素晴らしければ素晴らしい程、最後の余韻は大事になってくると思うのです。

どうなのでしょうか?

余韻の雑な音楽はtopの写真のような画像に等しいのかもしれないな。(音の余韻の美しさはデジタルレコーディング理論的にいうと、bitという数値がよいほど(16bitより24、32bit。。。)美しく再現されるといいます。そのbitをわかりやすく写真にたとえると、画像の編み目の細かさといえるのです。)